2013年冬に完全に消滅してしまった
名急行「きたぐに」。
廃止から10年近く経ってしまったということで
記憶がまだあるうちに
思い出話でも書いておこうと思いまして・・・。
(ろくでもないものばっかりですが)
写真もいろいろ撮ってましたが
データ消えてしまいまして
(´;ω;`)ウゥゥ
まあ、車内の様子などは
ウィキペディアでも見れますので、そちらで補完してくだしあ・・・。
もくじ
きたぐにプロフィール
超基本情報
・大阪と新潟を、北陸本線経由で結んだ夜行列車
(昭和の頃は青森まで行ってた)
平成期は、主に583系で運転。
・自由席を連結していたので
銀河などのような『寝台急行』ではなく、単なる『急行』である。
(寝台列車は、全席指定なのが条件)
・テレビの台風情報では
しょっちゅう『特急きたぐに』と間違えて表示されていた。
闇鍋のような編成
ひとつの列車に
・自由席
・グリーン車
・A寝台
・B寝台(3段式)
があるという
昭和の鉄道を知らない世代からすると
かなりカオスな、ごっちゃ煮編成。
個人的には
『平成時代の中でもっとも昭和っぽさを残した列車』
と思ってます。
グリーン車だけ乗り損ねたのが
今でも後悔。
後悔とはいえ
わざわざグリーン車乗るかな〜?
と今でも思っている。
タイムスリップで過去に戻っても
寝台車乗るだろうな。
棺桶中段寝台
B寝台は
脅威の3段ベッド。
上段と中段の高さは
ともに68cm。せまい。
いかに昭和の人たちが小さかった
というか
昭和後期〜平成にかけて日本人がデカくなったか
肌で理解したもんです。
特に中段は
『上下に挟まれているという、心理的圧迫感』が強くて
誇張無しで、本当に
『棺桶に入ってる感覚』でした。
昔、急行「あおもり」という臨時列車で
(きたぐにと同じ車両)
敦賀から青森まで中段に寝て乗ったことあるけど
あまりの時間の長さと棺桶感で
「あれ?もしかして、俺○んだ?」
と錯覚したもん。
大館駅が黄泉の国に見えましたよ。
ちなみに、上段には
ちっちゃい、ちっちゃい窓が付いてました。
そこから見る、大阪駅出発時の茶屋町(ヘップとかのあたり)は
なんかいつもと違って、素敵に見えました
(旅立ちへのワクワク感と、窓の異様な小ささから来たものか?)
急行「きたぐに」思い出話
「かわいそう」事件
2004年のゴールデンウィークに
きたぐにで新潟へ。
(きたぐにに乗ることが一番の目的だったので、新潟ではほぼ何もせずに北越と雷鳥を乗り継いで帰った・・・)
新潟に着いた時にハッと目が覚めたので
寝癖ボサボサ
ジャージ姿のまま、とりあえず下車。
お腹が空いて
思考回路がショートしてたので
そのままの風貌で
駅前のコンビニに行き
どん兵衛(うどん)の大盛りを買って、コンビニの前で座り込んで食べてました。
すると
近所のおばちゃんらしき人がやってきて・・・。
「おにぎり、あげようか?」
えっ?!
「あっ、いや、このうどんでお腹いっぱいなんで・・・どうしてですか?(おにぎりをあげるなんて言うんですか?)」
「だって、かわいそうだから・・・」
ボサボサでジャージ姿(たぶんヒゲも伸びてた)で座り込んでた僕を
みなしごハッチというか
家なしハッチ的な人だと勘違いしたようで・・・。
これがホントの
『人情ふれあい旅』
ってやつですな。
恥ずかしすぎて
すぐに新潟から離れたけど・・・。
「親戚の金で乗車」事件
2005年ころ。
山梨名物料理『ほうとう』を食べにいきたくなった僕は
大阪からサンライズ号に乗って早朝の富士駅へ。
そこから身延線に乗って甲府に向かうという、完璧なプランを立てて実行しようとしました。
(乗車券は、大阪から静岡・富士経由で甲府へ行き、そこから西へ折り返し塩尻や名古屋を経由して帰るルート)
ところが、サンライズを下りて
駅ホームで荷物整理をしていると・・・
「げっ!財布が無い!!」
車内に置いてきてしまったようで・・・。
たまたま
乗車券だけはお尻のポケットに入れていて無事だったのですが・・・。
そこで、急遽
千葉県某所にいる親戚に電話をかけ
「今からそっち行くから、交通費貸して!!(´;ω;`)ウゥゥ」
いまさらながら思うんですけど
こういう非常事態の場合
おとなしく大阪(自宅)に戻りますよね?
たしかに、富士からなら
千葉の方が近いけどさ・・・
『多少誰かに迷惑かけてでも、旅行は続ける』
根性が透けて見えて辛いわぁ・・・。
千葉県某所の駅に着き
改札越しに
親戚から金を受け取り
甲府からの乗り越しということで
頭がクラッとくるような精算金額を支払い・・・
申し訳ない事に
そのあと焼肉をごちそうになってしまい・・・
落ち着いてから
もらった(というか借りたというか)お金を数えてみると・・・
「げ?!5万もあるやんけ!」
予算が大幅に増えてしまったため
急遽、上越・北陸本線経由で大阪へ帰ることに。
いまさらながら思うんですけど
こういう非常事態の場合
おとなしく「のぞみ」とかに乗って、すぐに大阪(自宅)に戻りますよね?
たしかに、大阪へ帰るなら
北陸経由の方が近いけどさ・・・
(遠いわ!)
『開き直って、旅行は続ける』
根性が透けて見えて辛いわぁ・・・。
あんま細かい事は覚えてないけど
越後湯沢と長岡で、美味い物食べて飲んで
さんざん贅沢してから乗った「きたぐに」は
ああ
背徳の味がしたぁ・・・
(そういうときほど、自由席でもすぐ寝付けるんだわ)
あと覚えてるのは
自宅でチビるほど親に怒られたことくらいです・・・。
眠れない夜は・・・
2006年、大学生だった頃。
翌日に大学の授業があるので
早く寝ないといけなかったのに
なかなか眠れない。
パソコンで調べると
適度な振動があると、よく眠れることがあるらしい。
ということで
「きたぐに、乗るか!」
となったわけです
(どーしてそうなる?)
しかし、新潟まで行ってしまうと
授業に間に合わないので
福井で折り返して帰ってこよう!
ということに。
(もちろん、自由席でゴロ寝。金沢で折り返すのが一番スムーズだったが、切符代が高すぎる)
たしか電車賃は
往復で8000円くらいだったかと。
大阪発が福井に着くのが2時過ぎ。
福井に大阪行きが来るのが4時過ぎ。
だいたい2時間空くので
その間は、駅前の居酒屋で軽く一杯飲んで時間潰すか!
完璧なスケジュールで出発。
久々のきたぐにの旅に興奮して
まったく眠れなかったことは言うまでも無い・・・。
ちゃんと授業中に寝たので
睡眠は確保しましたけどね!(おろっ?)
『ゆりかご代わりに夜行列車』
今ではもうできない、古き良き時代の残り香を感じた旅でございました・・・。
(おまけ)年明け
きたぐにが京都駅を発車するのが
深夜0時過ぎ。
(たしか2008〜2009年)
12月31日に大阪駅から乗り
京都駅を出た時点で1月1日になったので
「新年の挨拶のアナウンスでもあるのかな〜?」
と思ったら
なんもなかった!
淡々と
いつも通りの停車駅と到着予定時刻のご案内。
鉄道っぽいな〜と思った記憶がありました
(特にオチは無い)
あなたが乗った時の年越しでは
新年のご挨拶はあったんでしょうか?!
そういや
日が変わってからアナウンスがある列車なんてもうほとんど無いよね・・・
(夜中の通勤列車を除いて)
ありがとう、きたぐに
誰にも言ったことがないですが
「きたぐに」という列車が廃止になった時点で
僕の、純粋な
『鉄道オタクとしての情熱』
は消滅してしまいました・・・。
いまでも
鉄道旅行はしょっちゅうしますが
それは
「鉄道オタクとして楽しむ」
はなく
あくまでも
「旅行好きが旅行を楽しむ」
程度のものであって・・・。
旅行ブログを書いているのも
所詮は
『失くした情熱の埋め合わせ』
みたいなもんです。
ネガティブに聞こえるかもしれませんが
そう思わせてくれる程
本気で愛することができた、最後の列車だったということです・・・。
あれから
「この列車に乗るために旅する」
なんてのがほぼなくなりましたが
(「はまなす」が最後かな?)
人生というのは卒業の連続ということが分かってきたので
これは、これでいいんじゃないでしょうか。
ありがとう、きたぐに。
来世では
客車時代の青森行きに乗ってみたいね~。
こちらもすっかりレトロな記憶になってしまいました・・・。
>>>鉄道旅行むかし話 急行「だいせん」2004夏物語