鉄道旅行むかし話

鉄道旅行むかし話 急行「だいせん」2004夏物語

だいせん

こんにちは。
鉄道で日本を旅するのが大好き
「てりん」と申します。

 

鉄ちゃんに覚醒してから今年(2019年)で16年が経ちました。

この16年は
「ひっそりと生き残っていた『国鉄』が『JR』に急速に変わっていった」
時代だったように思います。

 

本日は、平成の時代にひっそりと生き残っていた

『国鉄』にまつわるちょっとしたエピソード(思い出話)を書いてみたいと思います。

 

合言葉は「だいせん」

長らく放置していたミクシィのアカウントに保存されていた画像を救出し保存した中に、懐かしい列車の画像がありました。

それが、トップ画像の
急行「だいせん」の写真です。

 

今日は、この「だいせん」で山陰地方を旅した、2004年の夏のお話。

 

 

※「だいせん」の廃止時の路線図。
下りは大阪23時15分発、米子5時42分着。
上りは米子23時04分発、大阪7時02分着。
夏ごろの下りは、夜明け前の日本海の景色が幻想的だった・・・。

 

大阪から兵庫県の城崎温泉に旅行していた僕は

帰りは「だいせん」で帰ろうと思い

豊岡駅周辺で時間を潰してから、夜中の3時台に豊岡駅を発車する大阪行き「だいせん」に乗ることにしました。

(豊岡3時30分発、大阪には7時02分到着予定のダイヤでした)

 

豊岡駅で東京行きの寝台特急「出雲」を見届けた午後10時過ぎ。
どこかで時間を潰そうと思い駅構内を歩いていると

 

「だいせん?」

 

と、ひとりの30代くらいの男性に声をかけられました。

 

まるでスパイの暗号みたいな問いかけでしたが

「今夜のだいせんに乗っていくの?そのみすぼらしい格好を見るとホテルを予約しているようには見えないし」

というニュアンスだということに気づいた僕は、その人を無視せず話をしてみることにしました。

 

その人は「かすみ観光大使」のコザキさんという人で
(かすみとは、近くにある香美町の地名(香住))

公務員なのか何なのかはよく覚えてませんが

思っていたほどは?怪しい人ではないようでした。

 

「だいせんが来るまで、まだかなり時間あるでしょ。うちに寄ってく?」

 

女子の一人旅なら警察に通報レベルの出来事ですが

いや、男子の一人旅でもかなり危なそうなシチュエーションでしたが( ° ω ° ; )

その当時はあまり後先を考えない性格?だったし

正直
午後10時から夜中の3時まで時間がつぶせるような都会でもなかったので、ホイホイと彼の車に乗り、駅近くの自宅まで行くことになりました。

 

家ではお母さんが出迎えてくれて、地酒の「香住鶴」を振舞ってもらいました。

まだまだ舌がお子ちゃまだった僕にとって

いわゆる「フルーティな香りのする日本酒」は衝撃で、遠慮なく何杯もおかわりしてしまいました。

 

 

「ンマーイ!
すごい、日本酒ってもっとキツイ味がするかと思ってたけど、飲みやすくて美味しいんですね!」

「それは、氷を入れて薄めたから当たり前でしょ」

 

 

意外と何年たっても忘れないものですね、こういうくだらないやりとりって。

 

旅先で知らない人の家に転がり込んでお世話になる・・・
という、まるでテレビ番組の企画のような展開に驚きましたが

地方では、まだこうしたもてなしの精神が残っているのかもしれません。

 

こうしてすっかりコザキさんにお世話になり、僕は無事に大阪行きの「だいせん」に乗ることができました。

強烈な二日酔いを手土産にして・・・。

変わる山陰本線、変わらない山陰

それからしばらくして

なぜか急に英語を勉強するといってコザキさんが僕の地元の大阪にやってきて、僕の高校時代の英語の教科書が欲しいというので手渡すなど、今思えばよく分からない交流が続いていました。

 

2004年10月16日。
急行「だいせん」最終運行日。

僕は米子までのチケットを持って一人で、大阪駅から「だいせん」に乗り込みました。

 

「よぉ、やっぱり乗ってたな」

特に申し合わせてもいませんでしたが、コザキさんと遭遇しました。
まあ、多分乗ってるだろうなとは思ってたけど・・・。

 

シカ(イノシシ?)と接触するなどのハプニングもありながら
無事に最終の「だいせん」は終着の米子駅へ到着し、38年間の歴史に幕を下ろしました。

 

それからわずか数日後。

超大型の台風23号が本州に上陸し猛威を振るい、兵庫県では26人もの犠牲者が出るほどの大きな災害となりました。

特に豊岡は、連日トップニュースで報道されるほどのひどい被害を受けてしまいました。

場所が場所だけに、心配になってコザキさんにメールをしてみましたが、返信は返ってきませんでした。

まぁ、地元が大きな被害を受けている時に、大阪の人間からのメールにいちいち返信しているヒマなどなかったのでしょう。

 

今コザキさんがどうしているのか分からなくなってしまいましたが

「だいせん」も「出雲」も廃止になってしまい、ちょっと元気をなくしているかもしれません。

餘部鉄橋も情熱の赤から、コンクリート色に変わってしまったし・・・。

 

 

※情熱の?赤だった頃の餘部鉄橋とキハ181系時代の「はまかぜ」

 

 

みなさんも山陰を旅行する機会があれば、ぜひ豊岡に立ち寄ってみてください。

 

「はまかぜ?」

 

という合言葉が聞こえてくるかもしれませんよ。

 

「きたぐに」の昔話もあるよ!
>>>鉄道昔話 急行きたぐにの思い出

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